Vol.18 | イレーネ・シュヴァイツァー@ローテ・ファブリーク、ウンエアホェルト!2007
Irene Schweizer @Rote Fabrik, UNERHOERT!
(c) 横井一江 Kazue YOKOI

 2007年11月、インタクト・レコードのパトリック・ランドルトに誘われて、ウンエアホェルト!というフェスティヴァルに出かけた。チューリッヒに到 着して、まず向かった会場がローテ・ファブリーク。市街から少し離れたチューリッヒ湖沿いにあるその名のとおり工場を改装した赤いレンガの建物で、コン サートや演劇の上演、展覧会などが行われている文化施設である。中にはレストランもあり、アーティスト・イン・レジデンス用のスペースもあるという。そこ では、ウンエアホェルト!に限らずジャズ関係のイベントも多く行われている。スイスのミュージシャンとその周辺の人々によってつくられたファブリーク・ ジャズという組織があり、1984年に始まったタクトロス・フェスティヴァルの他にもコンサートの運営にあたっている。
 しかし、ローテ・ファブリークが文化施設として使われるようになるまでには、長い闘いがあった。70年代終わりに工場を取り壊して高速道路を造る計画が 出たときに、工場を文化施設として再利用すべきだという声が起こり、住民投票が行われた。こういうところは、直接民主主義が残っているスイスらしいなと思 う。住民投票の結果、工場跡を文化施設として利用することに決まった後も、実際に文化施設として使われるまでにはさらに紆余曲折があり、デモやシットイン など直接的な行動も行われたらしい。ローテ・ファブリークは音楽家、アーティストも含めた市民が確保したスペースだといえる。場所に歴史あり、なのだ。
 イレーネ・シュヴァイツァーは、そのファブリーク・ジャズの設立メンバーであり、タクトロス・フェスティヴァルやウンエアホェルト!にも関わってきた。 もう随分前、タクトロス・フェスティヴァルかローテ・ファブリークで行われたコンサートだったかは失念したが、それに出演した日本人ミュージシャンが「イ レーネが受付にいたよ」と言っていた記憶がある。スイスにこの人ありというミュージシャンは、ローカルと外とを繋ぐネットワーキングのハブでもあった。 ローカル・シーンの活性化には彼女のような存在が欠かせない。シュヴァイツァーを通して、時代とスイスというローカルな音楽シーンが垣間見えるのもそれ故 なのだ。
 1983年、シュヴァイツァーはヨーロピアン・ウィメン・インプロヴァイジング・グループを立ち上げる。それはマギー・ニコルスのフェミニスト・インプ ロヴァイジング・グループを発展させたものといっていい。それまではフリー・ミュージックはマッチョな男世界で、シュヴァイツァーが紅一点といってもいい 存在だった。女性インプロヴァイザーがその存在をアピールするきっかけとなった女性のミュージシャンのフェスティヴァル、第二回カネイユ(1986年)が 開催されたのもローテ・ファブリークであり、シュヴァイツァーも運営に携わっていた。ちょうどその頃、スイスではレズビアンによる運動が盛んだった。それ ゆえにカネイユが話題になり、広く知られるきっかけになったのかもしれない。しかし、その弊害もまたあった。パトリック・ランドルトがシュヴァイツァーの タクトロス・フェスティヴァルの録音をレコード会社に持ちこんだが全て断られる。彼女がレズビアン運動のシンボル的存在とみなされていたことが暗に作用し たのだ。そこで、ランドルトとシュヴァイツァーは自分達でレコードを制作することを決める。インタクト・レコードはこのようなきっかけでスタートしたの だ。

 

 ローテ・ファブリークでイレーネ・シュヴァイツァーを観ることは、「ホーム」で彼女を観ることだった。
私が観たステージは、オリバー・レイク(sax)、レジー・ワークマン(b)、アンドリュー・シリル(ds)との共演である。驚いたことにピアノの上には 譜面が。彼らの作品を演奏することに、即興演奏を身上とするシュヴァイツァーは、最初難色を示したと人づてに聞いた。しかし、そこはベテランのなせる技。 とはいえ、印象に残ったのはワークマンとのデュオでのインタープレイであり、アンコールの即興演奏での密度の高いフリー・プレイだった。パーカッシヴであ りながらもピアノの音色を生かしきれる彼女のようなピアノ奏者は希有である。
 しかしながら、シュヴァイツァーはヨーロッパに多いクラシック・現代音楽の教育を受けたミュージシャンとは異なったバックグラウンドを持つ。十代でビ バップを演奏し、イギリスでジャズ・ピアノを学んだのち、帰国してから後にロック・バンド「グルグル」を創るマニ・ノイマイヤーとウリ・トレプテとトリオ を結成。また、ピエール・ファーヴレとも活動を始めた。1966年にフランクフルトのジャズ祭に出演したことがきっかけとなって、ドイツのミュージシャン を知り、FMPの第一作となったマンフレッド・ショーフの『ヨーロピアン・エコーズ』にも参加している。
 こう書くとビバップ、モダンジャズからフリーへとジャズの進化形そのままに演奏スタイルを変え、フリー・ミュージックへ向かったように見えるが、60年代彼女に大きな影響を与えたのは、アメリカのフリージャズだけではなかった。
 それは、60年代半ば南アフリカからアパルトヘイトを逃れてヨーロッパにやってきたミュージシャン達である。ダラー・ブランド(アブドゥーラ・イブラヒ ム)、ドゥドゥ・プクワナ、ルイ・モホロなどは、一時チューリッヒに住んでいて、アフリカーナというジャズクラブで演奏していた。シュヴァイツァーは、南 アフリカのミュージシャンから多くの影響を受けたと語っているが、彼女の持ち味であるパーカッシヴなプレイ、リズム感はそこから来ているのだろう。クラス ターも内部奏法もその表現方法の発展系として用いられているといっていい。彼女とアフリカ系のミュージシャンとの相性がよいのは、このようなバックグラン ドがあるからに違いない。また、ビバップが背骨にあるフレッド・アンダーソンのようなミュージシャンとも共演可能なのは、彼女のスタート地点がビバップ だったからだろう。

 今年、シュヴァイツァーは古稀を迎え、4月にはそれを祝うソロ・コンサートが行われた。ベテランだけではなく、若手とも共演している彼女の最新作は来日 したこともあるユーク・ヴィッキーハルダーのカルテットとの作品『JUMP! / JURG WICKIHALDER EUROPEAN QUARTET feat. Irene Schweizer』だが、4月の録音も『TO WHOM IT MAY CONCERN』として彼女と縁の深いインタクト・レコードから続いてリリースされるという。そんな知らせを受け取ったとき、銀髪となったシュヴァイツ アーの佇まいを思い出しながら、再び彼女のソロ演奏を観たいと思ったのである。

横井一江:北海道帯広市生まれ。The Jazz Journalist Association会員。音楽専門誌等に執筆、 写真を提供。海外レポート、ヨーロッパの重鎮達の多くをはじめ、若手までインタビューを数多く手がける。 フェリス女子学院大学音楽学部非常勤講師「音楽情報論」(2002年〜2004年)。趣味は料理。